徒然日記

約7年間の出来ごとです。

13

「おいっ。まだ赤信号だぞっ。」
近所のお爺さんが手にした黄色い旗を自分に向けて怒鳴り散らした。

歩道には高校生の男子がエナメル製の野球バックを背負いながら歩いている。
そのうち何人かは驚きながら振り返るがそんな視線は全く気にせず駆け足で走った。

アパートから契約駐車場まで徒歩5分の距離を走ったおかげで2分で到着し、覚束ない手つきでエンジンキーを差し込み、回す。

今時キーレスではない車なんて絶滅危惧種だろうと思ったが慣れとは怖いものだ。
ドアを開けてエンジンをかけ、パーキングからドライブにレバーを下ろす。

先日、先輩から車を譲り受け、早速今日から車通勤という訳ではあるが、気が重い。

「明日から7時に家に来て。」
この言葉は自分に運転手になれということを意味するのに時間はかからなかった。
断る訳にはいかず承諾したのだが、携帯の画面は既に6時45分を過ぎている。

遅刻はないと思うけど、それほど余裕もあまりない。先輩の家まで約10分の道のりを事故なく到着。(今となって思い返すと、自分を先輩の家の近所に勧めたのはもしかしたらこのためかもしれない)

「おはようございます。着きました。」
インターホン越しに声をかけ、暫くの間待機していると、玄関の扉が開き先輩が出てきた。

「車、もっと路肩に寄せられないの?そんなんじゃ警察よばれるよ?」
朝の挨拶も出迎えの感謝の言葉もなく、そう言って後部座席に荷物を卸ろし、助手席に乗り込んだ。
「すいません。気をつけます。」

しかし、そのダメ出しはまだほんの序章に過ぎなかった。

12

「これ、昨日と一昨日の契約書です。」
月曜日、朝礼が終わり準備をしている先輩に鞄から出し渡した。
土曜日2件、日曜日1件、合計3枚の契約書をヒラヒラさせながら、
「大丈夫?すぐに辞めたりしない? 」
と不躾に聞いてきたが、恐らく問題はない。
3件全てお客さんから契約したいと言ってきたからだ。

うちの会社では契約の期間を設けてはいない。
携帯会社等でよく見られる、「◯ヶ月は絶対に続けなければならず、途中解約する場合は違約金を支払う」というルールがない。

つまり、いつでも配達をキャンセルできる仕組みになっている。

通常、会社の利益を出すためには最低4ヶ月は続けてもらわなければならないと、研修のときに聞いたことがある。

ランニングコストというものだそうだ。

しかし、それを契約時にお客さんに伝えると「とりあえず初めてみようと思っただけなのに、それなら契約しない。」というリスクが生じ契約が摂りづらくなるため、敢えて説明はしない営業がほとんどである。

なので、それを健康面に置き換えて「個人差があるので一概には言えませんが、効果が出るまで出来れば半年を目処に続けて見てください」と伝えるのが常套句となっている。

「すぐに辞めたら意味ないからな。」
3枚の契約書が効いたのか、特に嫌みもないまま先輩は定例会議に出席するため会議室へと向かって行った。

自分も出発しようと準備しようとしたとき、
「お前、車欲しくない?」
急に戻ってきた先輩から聞かれた。
今は自転車で通勤している。いつかは買いたいと思ってはいたが、特にきっかけもなく、かといってそこまで不便でもないので結局そのままだ。

「いや、欲しいと言われれば欲しいですけど今は特に。」
そう答えると予想外の答えが返ってきた。

「なんだ。よかったら俺の車お前にあげるよ。」

急な申し出に一瞬言葉を失った。

11

「これ持ってけ。」
男性はビニール袋を取り出し、自分に向かって放り投げた。放物線を描きながら胸の辺りにストライク。中を見るとそこには、チョコレートやあめ玉、他には駄菓子が袋一杯に入っていた。

「あ…ありがとうございます。」
困惑しながらも、一応お礼を言う。
「なあ兄ちゃん?その仕事初めて何年だ?」

「はい。まだ、2ヶ月です。」
「そうか。随分若く見えるが何歳だ?」
「22歳です。」
「偉いな。頑張れよ。」
そう言い残し、男性は作業着のまま玄関を出ていった。庭先に停めてある軽トラックに乗り込みエンジンを駆け、どこかに行ってしまった。

「昔、まだ若いときにお父さんもあなたと同じような仕事やってたのよ。」

傍らで一連のやりとりを聞いていた女性が口を開いた。
「多分そのときの自分を思い出したんじゃない?じゃなきゃ契約しないわよ。元々牛乳得意じゃないんだから。まあ、飲まなかったら私が飲むけどさ。いずれにしても支払いはお父さんの年金から出させるわ。じゃ、頑張って。」

そう言って家の中に入っていった。

改めてお礼が言いたかったが、だいぶ時間がたってしまった。まだまだ行かなければならないところが山ほどある。

手にしたビニール袋の中から1つ飴玉を取り出した。口にすると強い酸味が口の中に広がっていく。

きっとあの男性も昔、同じように誰かに契約してもらい、お菓子をもらったことがあるんだろう。

飴玉のせいか、契約のせいかはわからないけ、もう少しだけ頑張ってみよう。

10

「俺が飲んだのはどれだ?」
そう言って奥様からパンフレットを乱暴に奪い、作業着に身を包んだ初老の男性が自分に尋ねてきた。

「そのページの1番左上の小さい瓶に入っている牛乳です。」
そう伝えると男性はその商品の所を暫くの間じぃーと見て、
「よくわからん。」
と、パンフレットを投げ捨てた。

なんだ。結局いらないんじゃないか。

無惨にも床に落ちたパンフレットを拾い、帰ろうとしたとき、
「今のやつ、俺が飲むから。兄ちゃん、何か書かなきゃいけないんだろ?」

そう言って、手を差し出してきた。
驚きのあまり、え、あ、はい。と間抜け丸出しの返事になってしまったが、鞄の中から書類とペンを取り出し、手渡した。
「こちらに名前と連絡先をお願いします。」

男性は乱暴に書き殴った後突っ返してきた。

「あの…毎日1本飲むような感じでよろしいですか?」
各々の会社によって異なるが、配達の最低本数が決まっている。健康機能商品を吟っている性質上、通常は1日1本をベースに1週間に7本の配達をする。

しかし、7本では多いという理由で、5本や4本、聞くところでは2本の会社もあるらしい。
配達員の人件費やガソリン代等のコストをなるべく減らすために、最初は毎日1本つまり7本での契約を勧めるのがセオリーになる。

「兄ちゃんの好きにしていい。ただ、あんまり高いのは勘弁してくれ。」

「わかりました。それでは毎日1本という形でお届けします。配達日は月曜日と木曜日の週に2日。それぞれ3本、4本とお届けします。大体4000円いかない位になりますが、よろしいでしょうか?」

「それでいい。」

これでゴネられたらと不安だったが、杞憂に終わったようだ。

「最後に受け箱を玄関先に置かせて頂きますので、少々お待ち下さい。」

車に戻り、真新しいビニール袋に包装された受け箱を1つ取り出し、駆け足で戻る。

「こちらでよろしいでしょうか?」
「ああ。」
玄関先の鉢植えの横に置き、とりあえず契約後の一通りの作業を終えた。まさか契約してくれるだなんて思わなかった。嬉しさのあまり顔が思わず綻んでしまうのを必死に抑える。

「今日はありがとうございました。それでは失礼します。」

そう言って、退散しようとしたとき、
「ちょっと待て。」

嫌な予感がした。

9

「ボールそっち行ったぞ‼」
小学生くらいの子供2人がかっ飛ばしたボールが足元に転がる。ゴムボールかと思ったら以外にも固く軟式用のボールだった。拾い上げ軽く振りかぶって駆けつけた少年の胸元へ投げ返す。
「すいませーん。ありがとうございます‼」
まだコントロールは落ちてないことよりも挨拶がしっかりできていることの方に驚いてしまった。自分もそうだったが、やはりスポーツをしていると指導も厳しいのかと思っていた矢先、
「ごめんなさいね。遅くなって。はい。これでしょ。」
インターホンを押してから約10分後、ようやく出てきた50代くらいの女性から空き瓶を手渡された。
「パンフレット読んだよ。けっこう高いのね。」
どうやら、配ったパンフレットに記載された値段に納得いってないようだ。
「宅配専用商品でして、スーパーに売られている商品よりも値が張りますが、その分効果効能は高いとテレビや雑誌を初めとするメディアでも取り上げられている商品になってます。」

「そうだよねぇ。ちょっと待って。」
そう言って再び家の中に入り、すぐに出てきた。
「あなた何?日曜日にもこうやって勧誘してるわけ?これ飲みなよ。」
そう質問され、手渡されたのは大手メーカーの某スポーツ飲料水だった。
「ありがとうございます。毎週ではないんですけど。」

「ぶっちゃけしんどいでしょ?いや私もね。あなたくらいのときに新聞の勧誘やっててさ。もう1日何百回断られたことか。」

「そうだったんですか。」
どうやら、自分の若いときを思い出してるらしい。
扱うものは違えど、やってることは大体同じなんだろう。

「こんなこと聞くのも失礼かもしれないけどさ。今日契約取れた?」
「いえ、取れてません。」
「そうだよねぇ。それでも挫けずにやるなんて偉いよ。」
「ありがとうございます。」

この手の励ましにももう慣れてしまった。一見良い雰囲気になるけれど、結局契約にならないことが多い。断るなら初めから断ってほしいと正直思ってしまう。

「でも、ウチも生活厳しくて。今回はごめんね。」

やっぱりそうか。予想通り。諦めて帰ろうとしたとき、
「おい‼」
地鳴りのような声が家中に鳴り響いた。

8

「一体これは?」
我ながら間の抜けた声を出してしまった。
昨日の疲労が抜けないまま出社し、いつものように出発の準備をしようと営業車の扉を開けた。

そこには見慣れないクーラーボックスが3箱置いてあった。開けてみるとそこには大量のサンプルがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

「それ明日と明後日の分だから使って。」
振り向くと先輩がいた。にやついた表情に恐怖を覚えた。

「明日は土曜日ですけど?」
社内規定では1週間に2日休みを取ることになっている。原則日曜日は固定で休みになっており、その他の曜日は自由に振り替えられる。
俺も先輩も月曜日から金曜日まで出勤したので、明日は休みということくらい知っているはずだが。

「いや、てっきり明日も営業に出るかと思って、用意しといたんだけど?別にいらないなら俺が使うけど?」

全く意味がわからないまま、更に続いて、

「今月もこのままのペースでいくと目標達成なんか夢のまた夢なんじゃないかな?だったら今のうちになんとかしようとするもんじゃないの?」

ようやく理解できた。簡単に言えば目標達成できなきゃ休みなんかないぞと暗に示しているのだ。断固拒否したいが上司命令では逆らえない。

「そのクーラーボックスはお前の家に置いておけ。間違っても会社に置き忘れんなよ。」

つまり、会社のタイムカードも押すなということだろうか。
「当たり前だろ。車も使うなよ。」

そう言って去っていく。しばらく何も考えられなかった。

7

「悪い悪い。多分空き瓶回収日に混ぜったかもしれないな。弁償するよ。」

30代程の男性は申し訳なさそうに財布を取り出した。

「いえ、大丈夫です。それよりこんな遅くにお伺いしてしまいすいません。何度か足を運んだんですけどタイミングが合わなくて。」

社内規定ではあくまでサンプルを配るだけで対価を貰ってはいけないことになっている。元々一度断られたが、そう言わずに受け取って下さいと半ば強引に渡した記憶があるから、余計に貰えない。
むしろ探す手間と労力をかけてしまってお金を払いたいくらいだ。

「実は先週から出張に行って昨日帰って来たばかりだったんだよ。すっかり忘れてたよ。」

「そうだったんですね。ところで、お配りしたパンフレットはご覧になって頂きましたか?」

「ああ。読んだよ。あれって配達してくれるんだよね?」

いつもなら「読んでない」だの「捨てた」だのバッサリ断られるような返事が多いが、この人はちょっと違うようだ。若干の期待を表情に出さないようあくまで冷静さを保ちながら答える。

「はい。週に2回、早朝にお届けさせて頂きます。」
「そうか。今日はもう遅いからちょっと考えさせて。また来てくれたときにまで考えておくから。明日からまた出張だから来週また来てくれないかな?」

「わかりました。ありがとうごさいます。失礼します。」

そう言って頭を下げ、玄関の扉を閉める。


やっぱり。

今のは断られたのか、はたまたアポなのか半信半疑だが、今契約出来なかったのは正直ショックだ。

もう少し強気でクロージングかけていたら契約できたのかもしれないが、既に時刻は21時を回っている。常識的にも迷惑だろうと敢えて引き下がった判断は間違いではないと思いたいがやはり悔しい。

結局今日の契約は0件。多分明日また先輩からの嫌味を聞くだろうと思うと胃が痛む。

会社について、片付けをして、日報を書いて、アパートに着いたときは既に日付が変わっていた。

数時間後、また明日が始まる。