20
「ばあばっ‼ねえ、ばあばってば‼空き瓶‼なんか変な人来た‼ヨーグルト食べた‼ 」
インターホン越しに聞こえてきた幼い声。
全体的に意味不明なのは良しとして、カメラに映った俺の姿はそんなに変なのかとチクっと心が傷付つく。
しばらくして、先日サンプルを手渡した40代位の女性が玄関から出てきた。
「これさあ、本当に効果あるの?」
女性は先日手渡したパンフレットの説明文を指差しながら聞いてくる。
そこには「テレビや雑誌等話題沸騰。内臓脂肪減少にお役立ち!」と銘打たれたヨーグルトが紹介されていた。
正直に言ってしまうと個人差がある。お医者さんが言うには毎日一個2~3ヶ月食べ続けてようやく目に見えて効果が現れてくるという。
もちろん、1ヶ月で現れる人もいれば、半年~1年経っても願った効果が出ない人もいる。また、その間に食事制限をしたり運動をすることによって変わってくる。
つまり、ヨーグルト「だけ」にこだわってしまうと嘘だの誇大広告だのクレームに繋がってしまうのだ。
その辺を踏まえて説明をしないといけない。だがそのまま伝えてしまうと契約に至らないケースもあるので、営業マンによっては濁して説明する人もいる。それは、平たく言えばお客さんに嘘をつくことになる。
俺はそんなことはしたくなかった。
「ちょっと。聞いてる?」
しばらく黙っている自分にイライラしたのか、怒り口調だった。
すいませんと謝り、目の前にいる女性には、ありのままを伝えた。
「やっぱりそうだよね。」
しばらく逡順して更に続けて、
「あんた、正直そうだから信用してみるよ。このヨーグルト、まず3ヶ月くらいかな。配達してちょうだい。」
正直に話してよかった。安堵しながら、ファイルから契約書とボールペンを手渡した。
「だいぶ前に来た営業の人、60歳くらいの男性だったかな?あんたとは全然違って都合の良いことばっかりで胡散臭い感じだったから断ったのよね。それより、はいこれ。書いたからよろしくね。ごめん。夕飯の支度の途中だから。」
そう言って契約書を返され、足早にキッチンに戻ってしまった。
そうだよな。家族皆さんの料理を作るのは簡単じゃないよな。
そんな忙しい中自分なんかの話を聞いてくれて、更には契約までしてくるなんて感謝しかない。
リビングにあったテレビからは人気の情報番組のオープニングテーマが聞こえてきた。あの番組は確か18時開始だったはず。
これ以上居座っては本当に迷惑になってしまう。
「あのっ…ありがとうございました‼」
キッチンまで届くよう普段は出さない腹から声を出、玄関を出た。
19
「お疲れさまです。」
携帯を手にしたが、まだふらつきは治まらない。
「どう?」
どうやらいつもの進捗状況の確認の連絡のようだ。「契約は獲れていません。具合が悪く、近くの公園で休んでいます。」
「そうか。それじゃまた連絡するから。」
たったそれだけ言うと電話は切れてしまった。
この人は心配する気持ちというのは持ち合わせていないのか。
そんなことを思っても仕方ない。
携帯から15時を告げるアラームが鳴った。
これは自分を奮い立たせるために設定したものだ。
15時以降は契約を取ることが難しくなる。
幼稚園バスの出迎え、買い物のため留守になりやすい。更には買い物帰りで忙しい、夕飯の用意で時間がない等々飛び込み営業マンを断る理由がこれでもかという位ポンポン出てくるからだ。
なので勝手ながら16時をデッドラインと呼んでいる。
デッドラインまで残り1時間、ふらつきも治まったようだ。
右手にカート、左手に地図とパンフレット。気持ちを切り替え少し覚束ない足取りではあるが、ゆっくりと歩みを進めた。
18
異変に気付いたのは自分自身ではなく、お客さんの方だった。
「あんた、顔色悪いよ?これあげるから飲みな。」
そう言われて500ミリリットルのスポーツドリンクを手渡された。
「あんた、若いのに頑張ってるから契約してもいいんだけど、私、乳製品ダメなのよ。主人は酒しか飲まないし。だからこれで勘弁してよ。友達に聞いてみて、欲しい人いたらあんたに連絡するよ。」
そう言われたので、携帯の番号をメモして渡した。
期待は限りなく0%に近いだろうが。
玄関を出てから、歩き出すと急に目の前がぐらついた。
地震かと思いきや、揺れているのは地面じゃない。
堪らず地面にしゃがみこむ。手にしたスポーツドリンクをゆっくり飲みながら、息を整える。
携帯の画面には14時10分と表示されていた。
朝からずっと歩きっぱなし。
一度コンビニに寄っただけで、口にした物は菓子パン1つ。まだ6月とはいえ、気温は27度を越えるとラジオの天気予報で言っていた。
「まずい…」
これはあれだ。熱中症というやつだ。
車に戻って休みたいが、こんな日に限って車がない。
仕方がないので、近くの公演にあった滑り台の下に潜り込み、体を休める。
契約は獲れない。体もボロボロ。気持ちも折れかけていたそのとき、急に着信音が鳴り響いた。
17
「ママー。あの人旅行に行ってきたのかなー?」
「指差しちゃだめ‼さっ。早くいきましょ。」
マスクをかけた親子連れに不審者扱いをされつつ
ガラガラゴロゴロ耳障りな不快音を出しながら歩くこと30分。キャリーカートを引っ張りながら出かける人なんて怪しいとしか言えない。道行く人達の視線も痛ければ、引っ張る右手も痛くなってくる。
車の運転技術も下手。だからといってキャリーカートの扱い方が上手いということはない。
一見簡単なように見えるが、実際は簡単じゃない。
少しでも重心がずれると倒れるし、石や雑草等々、わずかでも障害物があれば引っ張ることができないのである。
何度か左手にスイッチして右手の負担を減らしてみようかと試みたが、利き手ですら満足に扱えないキャリーカートは左手では大幅に難易度が上がり、苛立ちが募りストレスにしかならなかった。
精神的にも肉体的にも限界が来てしまう。
ダメだ。休憩しよう。トイレにも行きたいし喉も乾いた。
しかしここでもトラブルが発生してしまう。
いつもなら車に戻り、近くのコンビニまで行くのだか今回はその車がない。
仕方なくそのままガラガラゴロゴロ、もはや相棒みたいな存在感を醸し出しているキャリーを携えて歩き出す。
だがまあ、ここは右も左も田んぼと畑しかない田舎地域。最寄りのコンビニは駅前まで行かないと無い。普通に歩いても15分はかかる。
少し前にニュースで買い物難民が増加とかやっていたが、恐らく今の自分に近い気持ちなんだろうと思いながら歩くこと約25分。途中何回か転ばしたキャリーカートを店先に置き、青い制服がトレードマークのコンビニに入る。
車がないってかなり不便ってこと、先輩わかってんのかよと思いながらスポーツドリンクとあんパンを買い、店を出る。
そして来た道をそのまま帰り、現場まで戻った頃には既に午前11時を回っていた。
このままでは仕事が終わらない。
ペースを上げて意気揚々と相棒を引っ張る。
しかし、まだまだ苦労は続いていく。
16
「キャンプにでも行くんですか?」
そこに置かれたのはアウトドア用品売り場で見かけるキャリーカートだった。しかし、いくら頭を捻ってみてもキャリーカートと仕事は到底結び付かない。
「そんな訳ないだろ。お前、今日から車使うの禁止だから。」
どういうことか全く理解できない。
「誤解するなよ。勿論、現場までは車で移動する。そこからだ。今までは一軒ずつ車をお客さんの家やマンションに横付けして、訪問し、終わったらまた車に乗って移動してきただろ?」
確かに。あまり長い間横付けすると、苦情が出るので気を付けなければならないが。
「そのやり方を止める。そのキャリーカートにバックを乗せて歩いて訪問して。チラシは手で持てるよな。現場までは俺が送っていくから。」
いきなりの指示に困惑していると、続けて決定的な一言を言い放った。
「お前の運転下手過ぎて仕事にならない。車使うより歩いた方が早いだろ?若いんだし体力あるでしょ? 」
何も言い返せなかった。
言われるがまま、荷物を先輩の車に乗せた。そしてそのまま現場まで送ってもらう。
30分後、現場近くのコンビニに到着するとバックを乗せたキャリーカートと大量のチラシと共に降ろされる。
「夕方に一度見に来るから。その間に何かあったら連絡して。」
そう言って去っていった。
取り残された子供のように佇んでいた。
まあ、やることは変わらない。一軒ずつ訪問するだけだと、自分自身に言い聞かせ、ガラガラとキャリーカートを引っ張り歩く。
これから地獄のような時間が待ち受けてることも知らずに。
15
「バック、何回切り返しすれば気が済むの?」
嵐のような嫌味に耐え、どうにか会社に到着した。
既に精神は限界だった。いくら運転下手とはいえ言い過ぎだろう。
「俺にも家族がいるし、まだ死ねないから。」
いっそのことわざと事故ってやろうかと何度思ったことか。
まあ結局は実行できなかったけど。
とにかくこれからは一人だ。気持ちを入れ替えて営業車にいつもの荷物を運び準備を始めようとすると、
「今日からこれを使って。」
先輩はそう言って、ガチャリと見慣れないものを目の前に置いた。
「これは?」
ぱっと見て、一体何か分からなかった。
14
「ちゃんとバックミラー見て。なに。殺す気?」
後方から来るバイクに気付かずに、左折しようとしてしまい、慌ててブレーキをかけた。
「これで免許証持ってるとか、嘘でしょ?俺が担当の試験監督だったらとっくに不合格だぞ。」
いや、元々運転は得意ではない。大学一年生のときに免許を取って以来、運転とは無縁の生活を送ってきた。移動と言えば専ら電車と自転車。
つまりペーパードライバーだ。
今でも会社の車には自分だけ若葉マークを付けており、勿論この車にも付けてある。
しかも先輩が助手席に乗っているこの状況で、平常心を保って運転出来るはずもなく、これで早くも4回目のダメ出し。
「ウインカーを出すのが遅い」
「右に寄りすぎ。ぶつけんの?」
「歩行者いるの、気付かないの?本当に周りが見えてないね。」
駄目だ。耐えられない。これから毎日通勤するかと思うと出社前から帰りたい気持ちになる。
契約云々言ってる場合ではない。
最重要課題は運転技術の向上だ。